2018(平成30)年7月26日(木)『不安』
「不安」がその人をその人でなくさせる。
「不安」に対するやりくりとして神経症的パーソナリティが生まれる。
その今の自分の「不安」の元は、あのときあそこであいつとの間で体験した「不安」に由来する。
それがある明確な「出来事」として想起できることもあれば
小さな「出来事」の繰り返しであることもあるし
あのときにあたりを支配していたあのイヤな「雰囲気」として漠然と思い出される場合もあるが
強く抑圧されている場合も珍しくない。
(特定の「出来事」が想起できたとしても、実はそれは「前座」に過ぎず、「主役」が後から登場して来る場合もある)
いずれにしても、我々が小さくて弱かった頃に、あのときあそこであいつ(大人)との間で体験した、あの怯(ひる)み、すくみ、臆(おく)して、震えるような「不安」(「恐怖」と言っても良い)が、今ここで新たな刺激の下(もと)に甦(よみがえ)るのである。
そして、その不安を、取り敢えず、やりくりするための方法や精神療法もいろいろと開発されており、
不安が強い場合には、薬物療法も行われることは、もちろん承知している。
しかし私見では、そんな一時しのぎだけでは、不安が再燃、あるいは、形を変えて現れて来るのは、時間の問題だと思っている。
もっと根本的に、もっと本質的に問題を解決しなければならない、と私は思う。
そしてそのために、あのときあそこでのあいつ(大人)との間での体験を徹底的に浮き彫りにして行くという方法もあるけれど、
私は、それをいくらやったところで、アタマで「わかる」だけの話で(「整理」するのには役に立つ)、根本的解決にはならないと思っている。
アタマで「わかる」だけでは人は変わらない。
カラダで「わからなければ」本当の変化は起こらない。
それ故、私は「肚(はら)が据(す)わる」体験の方を重視しているのである。
肚が据われば、怖れるものが減る、不安も減じる。
そのためにどうするか。
古人が伝えて来た伝統を私は重視する。
それが広く伝わっていないことを私は残念に思う。
また、伝わっていても(伝えても)実践されないことを残念に思う。
そしてそれが凡夫なのだと思いつつ
凡夫が目覚めるにはやはり「苦」が
そう
相応の「不安」がなければならないのかと思うのであった。